あああ、ゆれるという音楽は私にとって史料だった。何度も繰り返し聴いた曲たちは私の体温と合致していた。だけど私にとってゆれるとはどんなものからも独立していて静かな自分の世界にいるときだけに流れてくる音楽だった。生きて目の前で再生されるなんて思ってもみなかった。
でも現実では今現在ゆれるは頻繁ではないにしろライブをやってる。ただ地方だったりチケットが当たらなかったりで行けなかっただけだ。
それが電車で40分の場所でライブをするっていうんだから半信半疑でチケットを取った。
そして信じきれないまま気がついたら今日になっていてライブハウスにきた。
ずーっとずーっと信じられなかった。
10年前と表示されている動画に写っていた姿より少し深みが増していて、でも紛れもなく同じ顔をした人物が目の前に表れた。何回聴いても同じ音だった音楽が大きなうねりを帯びて爆音と共に聴こえてきた。
〝私のモノだった音楽〟が〝私とは関係なくただそこに存在し自在に変化していく生きもの〟に変わる瞬間が好きだからライブハウスに行くんだと思う。
それは私と音楽が切り離されてしまうことでもあるけど、同時に一体化していた音楽と私との間に距離という名の関係性が生まれることでもある。
AKGRBRND
手に入らないくらいがいいね
あなたとわたしのこの距離をうたう
ABZRBRND / ゆれる
ごちゃごちゃ言ってるが、Amiが俺の目の前に出てきて歌った、Amiが俺の目の前に出てきて何年も繰り返し聴いたのと全く同じ声で歌を歌った、それだけで十分だった。拳や指先ではなくて爆音でぐちゃぐちゃにされる快感があって、それは今目の前にいる他人と私との一方的すぎる関係性に何よりも相応しいものだった。
焦燥感は唯一の取り柄かもしれないのにそれすらも持て余して疑っている。
マラソンで開始直後に全力疾走してる人みたいな、意味がなく無理して時間稼ぎをしているだけ。はやくしないと間に合わない。
〝日々は波のように意味はないらしい 人は流れて 意図は愛おしい〟
意味のない日々に流されて焦って何もできないでいる。見当違いの抗いとして意図がある。せめてそれは愛おしいものであってくれ。
法律や道徳や結果で肯定できないことをゆれるに肯定してもらってました。肯定してもらうっていうか肯定されないものはないことにしちゃうから、知らず知らずに殺していた感情やら思考をゆれるにかたどってもらっていた。
今日も手放していたすべてが引っ張り出されるような、今までひとりで聴いて作り上げてきたゆれるに関するすべてをひっくりかえされるような時間だった。
誰よりもはやくどこまでも行かなくては。
昔の話は なしにしよう
動かない時計は美しいけれどさ相変わらず 興味の尽きぬ意図を
手繰り寄せて少しだけテンションをあげる
それは赤いかい僕は冷たい床の上 平熱の身体
偏ったプラス思考の脳に呆れて
笑えなくなる日々は波のように意味はないらしい
人は流れて 意図は愛しい赤い破壊、邪魔するな
僕は 不意に現れる焦燥感でさえも
悲観してるような気がして
そしてどうでもよくなったそれでいいの?
間に合わないサンキューサンキュー この孤独
サンキューサンキュー 哀しみも
サンキューサンキュー 出逢いもそう
真っ当に生きるよ赤い破壊 / ゆれる