雑記

光っているとっておきの情熱をチルドしてく

本当らしさ

今日は大学で初めて講義を受けた。特に面白かったのは人文学入門と題して人文学部の先生たちがそれぞれの切り口で1コマずつリレー方式で授業をしてくれるという神授業。履修必須な分、抽選も必須でこのまま履修し続けられるかはわからないんだけど1回目の授業から面白かった。

初回授業では、オーストラリアの小説家(&劇作家)のロベルトムージルの研究をしている先生がムージルの『トンカ』という作品を取り上げていた。キーワードは「本当」と「本当らしさ」。

『トンカ』のあらすじを説明すると、ブルジョワ階級の科学者の主人公が労働者階級のトンカと恋に落ちる。しかし主人公が長く家を留守にしている間にトンカの妊娠と性病が発覚した。主人公の周りの人々はみなトンカが不貞を働いたのだというけれど、トンカは頑なに認めない。主人公はそんなトンカの潔白を信じることにするが、、という〝自伝的な〟短編作品。

自伝的と呼ばれる理由は作者であるロベルトムージルの日記にある。ムージルの日記の中に作中のトンカと境遇の似たヘルマ・ディーツという人物の記載があるからだ。トンカにモデルがいることはムージル研究者の中でも常識らしく〝本当〟のこととして扱われている。しかしトンカのモデルとされるヘルマ・ディーツという人物がこの世に存在していた証拠はムージルの日記以外に存在しないという。公的な記録も一切ない。身分の低い労働者階級だったから正式に記録されていないと考えることもできるが、いずれにせよ〝客観的な証拠はない〟のに〝人々はトンカのモデルは実在すると信じきっている〟という点に先生は着目する。

これは『トンカ』で主人公の不在時に子どもを身籠ったトンカを人々が〝不貞を働いたに違いない〟と信じきっている違和感に重なる。

たしかにムージルの日記にはヘルマに関する記載がある。たしかにトンカは主人公の不在時に身籠った。しかしヘルマが実在する証拠は日記以外にないしトンカは不貞など働いていないと言っていて身籠っていること以外に不貞といえる根拠がない。それでも人々は99.9%の確率で〝本当らしい〟ことを本当のことだと捉える。

逆に言えば0.1%の本当らしさもまた本当になりうる。主人公は色々苦悩したりしつつも0.1%の中に存在するトンカ(不貞は働いていないというトンカ)を信じようとする。99.9%の本当らしさに埋もれてしまっているトンカ自らが示すトンカの姿を理解しようとする。

その過程は文学における〝比喩〟そのものだ、と先生はいう。

比喩でする例えは非現実的だけれど、それが非現実的であるということは気にならない。例えば「卵のような肌」といったときに卵が肌であるなんて非現実的だがそれをわざわざ問わなくても、どのような肌かは伝わる。

主人公は〝(自分の不在時に)妊娠したけど不貞を働いていないトンカ〟のことを比喩のように捉えてトンカの非現実性をいったん受け入れることで、トンカを理解した。

人々が何の疑いもなく本当だと思っていることは所詮本当らしさでしかない。限りなく本当らしいことが本当として扱われるのが現実世界だが、文学というアプローチでは、もっともらしい本当らしさの中に埋もれてしまった別の本当らしさを見つけ出すことができる。

科学者だったムージルは99.9%の本当らしさを本当だとする世界にいたはずで、そのことへの懐疑やら思考の果てにたどり着いたのがムージルの日記であり『トンカ』の執筆なのではないか。

というのが授業の概要。

最後に先生が「こういうことを考えるのが人文学です。」と言って人文学入門の初回授業が終わった。

もうこの文章がまるごと最近私が考えていたことと言っても過言ではないくらいタイムリーな話題だったからびっくりした。

わたしはマジョリティな本当らしさに埋もれた少しの本当らしさを見失いたくないと思う。でも少しの本当らしさを尊重して扱いたいと思うことがどういうことなのかわからなかった。論理の破綻?理屈の無視?そうではないはずと思っていてもならどういうことなのか説明できなかった。この講義を聞いて完全に説明できるようになったわけではないけど、私がぼやぼや抱いているお気持ちも学問的に検証できるのかもしれないと思った。卒論何書こうなんてぜんぜん、分野すら決まってないけど、これからいっぱい勉強した暁には良い論文が書ける気がする。!

引き続きドライビングファース全開でがんばるぞ!