雑記

光っているとっておきの情熱をチルドしてく

One Fine Day

 今年はほんとに激動だったね。わたしの毎年は毎回劇的ではあるけど、今年はなかなかですね。

 だって1月に全く想定できなかったことだけで12月が終わっていく年なんてなかなかないでしょ。

 今年が始まったとき、わたしは共通テストすら受けてなかったのかと思うとあまりにも不思議だ。

 今年のはじまりといえば、一寸先は闇とはこのことかというほどに、想像のつかない一年後が、半年後になって、3ヶ月後になって、だんだん近づいてくることが怖かった。

 でもついにやってきた一寸先は闇なんかじゃなくて目が見えなくなるくらい眩しい輝きの中だった。

 人が輝くとき、それは月のように何かの光を反射していて、見る人によってなにが光ってみえるのかは変わる。わたしの光もわたしがどこに立つかやわたしを見る誰かがどうやってわたしを見るかによってその輝きは変わっていく。

 この考えは昔も今も変わらないし、今年だって輝きの中にいたとは思うけど、それに目をやられてしまって実は何もみえてなかったのかもしれないし、勘違いかもしれないし、自分が誰からみてどう輝いていたかなんてわからない。

 そうやって常にうじうじしてもいたから楽な1年だったとはいえないけど、確かに光って見えたものはあったよねって、振り返っている。

何もかも失いながら部屋に花を飾って、何もかも満たされながら吐き気で便所に駆け込むみたいなことを繰り返しながら生きるんでしょうね。
馬鹿馬鹿しいがどれも本当なんだから仕方がない。
曇りのはずの空に浮かんだ満月も、銀色に光ってた朝焼けも、この目が見ちまったんだからこの目の中では本物だと思うわけです。

自分の中にしかない本当の幸せと本当の悲しみ。これがはたからみた時くだらなく見えるもんでも間違って見えるもんでも、それと本気で付き合ってくしかないわけですね。
この付き合い方について、あなたが、俺が、誰からも馬鹿にされることがありませんように、と思ってます。

One Fine Dayのはなし|仲川慎之介

 「メリークリスマス」なんていって時速36kmが出した新曲は、やっぱり今のわたしの少し先を歌っていて、これを指標にまた明日から歩き出せると思った。

 ひとりよがりだろとか、勘違いだろ、とか、意味がないだろ、とかそんなんじゃない。

 「これがはたからみた時くだらなく見えるもんでも間違って見えるもんでも、それと本気で付き合ってくしかない」んだよ。

 見えたそれが光なら、それが間違いでもなんでも嬉しいことじゃないか。

 そう思うと、この1年わたしの周りにあるものたちはすべてが鮮烈に光り輝いていたし、それはわたし自身も同じだった。そしてこの輝きは紛れもなく自分の力でたどり着いたものなんだと、そう信じていいと、1年も終わるいま確信できる。すべての光はわたしがこれまで歩いてきた道の先だから見えたものだし、見せることができた。

 通えるなんて正直ぜんぜん信じてなかった大学で、綺麗な月がみえたと思ったら、それは時計台の光だった。横に本物の月がみえて「ああ月がふたつあるみたいだな」って思って写真をとった。たしかにそのときは、ニセモノの月を、光を、嘘だとは思わなくて、ただただ美しいと思っていた。

 嘘だろとか勘違いだろとかそういうところの奥に本当があるんだと、身を持って知った1年だったな。

 

星を繋いで意味を探しては

ただいちいち信じてみてる

この心が散らばって光るなら

それでそれでいいと思った

白く何かを描く時には

黒くなったところも邪魔じゃないぜ

孤独や絶望の黒で囲んだある晴れた日

あの街頭の光を

月と見間違ったのが嬉しい

One Fine Day / 時速36km

 

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ここに立つ

前日忙し過ぎて0時の配信される瞬間を待てずに寝落ちして、そのまま2限テストだから絶対遅れたくなくて忙しなく家を出て電車の中でやっと聴いた時速の新曲。

途中までは混んでる電車とかテストとかの全体的なダルさへの慰めみたいな気持ちでなんとなく聴いてたんだけど、西武池袋線に乗ってる時にふと〝今こそが夢見てた未来そのものだ〟って思った。

時速36kmという存在が私にとってどんなものなのかは、これ読んでくれてる人にはもう散々聞いたことだろうけど、

12歳の私が時速を知ったとき、時速はバリバリ武蔵大生で、MVには江古田を歩くメンバーが写ってるし、ライブ前はいつも武蔵のフォークソング研究会の部室で練習しているとよく言っていた。

大学生というものに希望を抱いたのは紛れもなく時速の存在があったからで、10代という期間に希望を抱けたのもその間、時速が音楽を鳴らし続けてくれたからだった。

だから、12歳のころと変わらず毎日が大変だけど、その大変な毎日とは、武蔵大生として毎日西武池袋線にのって江古田に向かうことだし、大変な中でもフォークソング研究会の部室で練習したりひととふざけたりする楽しさがあって、何よりその大変な毎日の横で時速36kmが音楽を鳴らし続けてくれているということが、ひたすらに希望で、夢見ていた未来そのものだった。

 

間違った歩みたちが

変な形の轍になって

お互いのそいつを笑い合った

くだらないが愛していた

 

旅路の間でいくつも

血の流れない重傷を負って

残酷の向こう側を目指してる

 

旅路の間で僕らは

いつか忘れる思い出を持って

残酷の向こう側同士で手を振る

 

お互いの轍(通った車が道に残した車輪の後らしい)を知りたいと思って、でもそれに価値があるのは、それができるのは、今だけだって思って悲しくていつか心は離れてしまうしさよならだって言わなきゃいけないなんてムリ...

それでも、それなら、その向こう側で、残酷な毎日の向こう側同士で、手を振る。

さよならの向こう側(急に百恵ちゃん)ってことだ!

そのときにならないと、誰と手を振りあえるのかわからないけど、きっとあなたと手を振りあえると信じて、私は私のいるべきところにしっかりと立つぞ、

ここに立つ

ここに立つ

  • 時速36km
  • ロック
  • ¥255

 

どれくらい歩いてきたんだろう、知らなきゃ

秋の夜長にうつ伏せたら大人になった気がしてそれだけ拗らせてしまった(せだい)10月がすぎて、くるりみたいな季節が来ました。

今度コピバンするからってのもあるけど、THANK YOU MY GIRLをこれでもかってくらい聴いてる。

これはもうくるり知ったときからずっと好きな曲だなあ

THANK YOU MY GIRL

今日でさよなら言わなきゃ

どれくらい歩いてきたんだろう知らなきゃ

ここの歌詞って普通に考えれば、さよならを言わなきゃいけない相手とどのくらい一緒に歩いてきたのかを知ろうとしてるってことだよね。

私は初めて会った人だったとしてもその人自身が〝どれくらい歩いてきたんだろう知らなきゃ〟って思う(強引に自語り開始)。

というか私の他人に対する興味って全部〝今までどれくらい、どうやって歩いてきたのか知りたい〟って感情による。

私はありとあらゆるものの歴史が好き。なぜかというと歴史は必ず後世の人の意図によってつくられるものだから。

今起きてる出来事は、最初から歴史的意味を持ってこの世にでてきてそれが積み重なって歴史と呼ばれるわけじゃない。意味とかじゃなくただ現在が現在じゃなくなったあと、過去の出来事になって、それを選び取って意味づけするから歴史になる。

当たり前だけど、過去の出来事を選び取って意味づけをする過程には必ず人の意思が宿る。その意思こそが好きだからどんなものでも歴史が好き。

そりゃ学問としての歴史学はもっと実証的な過程がある。

だけどひとりひとりが過去の自分の出来事を振り返って「私はこういう人生を送ってきたよな」って語ることは、その人の意思や考え方の現れでしかない!

し、過去その人がどんなことをしてきたか知る以上に、その人が自分の過去をどのように捉えてどのように話しているかということ自体に〝その人らしさ〟が見える。

だから私はどんな人に対しても「この人の歴史を知りたいなあ」って思う。逆にいうと、自分の歴史を魅力的に語れる人に興味があるのかもしれない。

幸運にも今は、くだらないことばっかみんな喋り合う中で嫌になるほど誰かを知るとき(小沢健二)な気がする。

だから楽しいんだけど、それって永遠じゃないよねとも思う。

私たちはみんな旅立つ前の飛行場にいて、どうして旅立つことにしたんですか?って雑談しあって一時的に心を通わせてる(小沢健二!?)ような状態なのかもしれない。

だから二度と戻らない美しい日だし、いつか心は離れていく。

今日でさよなら言わなきゃってときがくる。

そうか、誰かを知ろうとするとき、それはいつかくるさよならを強く意識することでもあるのか、

話が錯綜してきた!!!

THANK YOU MY GIRLは強がりの曲なのかもしれない。本当はもっと、どれくらい歩いてきたのか知るだけの日々を続けたいのに、もうさよなら言わなきゃいけないんだなって曲なのかも。

でもさよならなんていえないし!

いつだって素直になりたいんだ、本当は、、、

 

失せる十月に活性化する気管支

失せる十月に活性化する気管支

それだけなのに心って単純ね

そうそう これは想像です/ゆれる

今年も季節の変わり目に活性化する気管支をひたすらいなすことをしています。

いつもと違うのはみんなも体調が悪そうなこと。ギリギリでいつも生きている人たちはもれなくダウンしてますね。

秋って体調も悪くなるんだが、精神面でもかなりやられる時期で。

秋の過ごし方を間違えると冬が終わる。

これはもう確実にいえる。忙しなく過ごしていたら忘れかけていたけど、冬を無事に越せるかどうかは今の振る舞いにかかっている。

今年はどうしよう。

今年はとにかく、柔らかく、軽やかに、どこまでも行きたい。

最近、私が魅力的だと思う人の特徴がわかってきた。それは〟確固たる自分があって、その自分でもって他者と関わり自分の形を柔らかく変えていける〟人。昔流行ったスクイーズみたいに、中身がぎっしり入っていてそれ自体がかわいい固形物。それでいて外からの触り方でどんな形にでも変わるし触るのをやめたら元の形に戻れるような人。

私は確固たる自分を持っている人とは全員仲良くなれると思っていたけど、自分から全く出てこなかったり他人と関わりあう楽しさを見出せない人もいてそういう人たちとはイマイチ気が合わないことを知った。

他人に興味がなくて、他人と関わる動機が常に自分だけの利益であるような人は話していてわかる。「この人は自己理解のための参考資料として私に話しかけてきてるだけだ」「この人が私と話していて楽しそうにしているとき、それは私との会話が楽しいんじゃなくて私との会話で見えてきた新しい自分の発見が楽しいだけだ。」と、

そういう人のことも好きだし、印象で他人の本当の気持ちを決めつけるのはよくないから、普通に話してはいるけど、心はカタカタ泣いているときもある。

かくいう私も自分にしか興味がないような会話をしてしまうときはあって、あとで振り返って気がつくたびに本気で後悔している。

自分がある人たちとはお互いを利用して自分自身の存在を強化するためだけの会話はしたくない。そういう会話は相手のことをよく知らない最初のうちは面白いけど、すぐに飽きてしまう。相手の考え方や話し方がわかってしまうから。「私の考え方や話し方をわかって!」っていう会話の仕方をしたら私の考えや話し方がわかったときに会話する動機がなくなってしまう。

そうじゃなくて、あなたの考え方や話し方と私の考え方や話し方で会話をした先でどんな話ができるだろうとワクワクしたり、私たちが1人ではすることのなかった考え方や話し方をする不思議さを面白がれるような人がいい。

他人とはそれぞれが別々の数式を持つ関数のようなものだと思っていた。会話する楽しさとは多様な数式に数字を入れて出てくるそれぞれの答えを面白がることだと思っていた。自分も他人が入れてくる数字を自分の数式に入れて答えにすればいいだけだと思っていた。

でもそれは違う。もっと、二つの式を因数分解するような、数学のことは本当にわからないのでもう例えとしてやめますが、体を動かすように、他者と頭を動かして、それ自体や変わっていく自分を楽しめるような人が私にはとても魅力的に見える。(他者と関わるというのは本や音楽などなど人が作ったものをひとりで摂取するときのことも広義で含んでいます。)

し、紛れもない私は紛れもない自分で持ってみんなと話したい。それで自分が考えつかないような考え方をしたり、自分だけじゃ到底できないくらい遠くまで話が発展したりしたい。それができることこそが私とあなたが友人たる所以だと思っている。

寝る前にぱぱっとかいちゃったからいつにも増してまとまりがないかもしれないけど、私はやれることはすべてやるから。それがいま私がいる〝場〟で必要な(あったらより良い)ことならば惜しみなくやる。

こういうことに時間を使って、今年も秋が乗り越えられますように。

柔らかく軽やかにどこまででも行くぞ

その先で必ず会おう、

 

 

待ち望んでるときに限っていつも悲劇は起こらないもの

夢の中にいるみたいなふわふわした気持ちで半年くらいが過ぎた。いろんな人にあって目まぐるしくすべてが変わってふわふわしたきもちで世界が進んでいく感覚には覚えがある。2019年、中学2年生のときも同じだった。

辛くて大変であると同時に刺激的で楽しくて周りに人がいっぱいいる2019年は高速ですぎていった。そして2020年を迎えると同時に瓦解した。終わりのないクレッシェンドでもはや騒音になって収拾がつかなくなったオーケストラの演奏を強制終了させるみたいに、流行病がやってきて収集のつかなくなった2019年を終わらせた。気がつけばあのころを知っている友人よりもそれ以降に知り合った友人の方が多くなって、2019年を過去として振り返るようになって、今に至る。

そんな2019年と同じような感覚で2024年が進んでいる。大変で辛くてでも何よりも楽しくて新しい。このままずっとこれが続いてほしいと思う。けれど、こんな都合よく続いていくわけがないとも思う。

いっそ終わってくれとすら思う。どうせいつか終わるなら始まってくれるな。

でも望んでいるときに限って悲劇は起こらないもので。今はただ、哀しいほど美しく、狂おしいほど透明な日々が続いている。

でもね、2019年と2024年はやっぱり違う。2024年には希望がある。いまがずっと続けばいいと思うような日々だけど、これから始まるであろう素晴らしい日々もたくさん控えている。1年後や2年後を想像して、待ち遠しくなる。そういう瞬間がある。

そう思えるのは2019年に出会えた人たちのおかげ。

わざわざ言葉にしないけど、2019年に出会えたみんなが本当に大好きです。みんなが見せてくれる生活の断片が何年もずっと人生の希望です。たまに会ってお話しできて本当に嬉しい。

年齢も住んでいる場所も全然違ったけど、それぞれ頑張るべきことも違ったけど、一緒に頑張っていた瞬間があった。私はそう思っています。なんなら今も。

だから2024年いろんな人と出会っていろんなことが始まって、すでに出会ってる人とももっと仲良くなって、ずっとこのままでいたいと思うけど、変わってしまっても、大丈夫。

そう思って、いまを過ごします。

まだ出来てもない話を話したくなってしまうような

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こうやってLINEのスクショが貼り付けられてるインターネット上の文章でそのあと美しい話が続いたためしがない。特に直近では嘘でも本当でも「うわー(⌒-⌒; )」ってなるnoteが出回ってて面食らいました...

好きなミュージシャンが考えてることなんて結局わからないよね。というか、わかってしまうと、重すぎて、都合悪すぎて、受け止められない。

「俺はダメだ」って歌ってるバンドマンが「お前はダメだな」って言われてしまうようなことをしてても当たり前のことじゃん?

でも「俺はダメだ」って歌詞に自己を投影した先には希望があってほしいんだよ。

ダメなやつがダメなまま蔑まれるんじゃなくて、ダメな奴がそれでもがんばればカッコよくなれるってことを証明してほしい。

そういう一方的な願いが投影できる音楽を〝好きだ〟とか〝すごい〟とか言ってるだけなのかもしれない。

いや、そうじゃない。

そんな小手先だけの浅学理論武装なんか打ち破ってくれるような、言葉にならない奥の奥にある何かを揺さぶってくれるような、そんな音楽に出会えたとき、私は〝好きだ〟とか〝すごい〟とか思っている。

つまり、好きな音楽をきいて浮かんでくるのは、言葉にしたら消えてしまうような脆くて曖昧で多様で複雑な感情だということ。

だから、複雑なものは複雑なままで置いておこうとろくに言語化もしないでいた。でもそうやって逃げてばかりもよくない。言葉はいつも頼りないけど、言葉はデジタルでアナログの感情を切り取ってしまうけど、それでも少し話がしたい。音楽の話を。

 

これまで聞いてきた中で、いちばんのラブソングをあげるとしたら、クリープハイプのねがいりという曲になると思う。

ねがいり

ねがいり

今日は何にもないただの日だ
君が作った飯を食って仕事に行く日だ
今日は何にもないただの日だ
君が作った飯を食って仕事に行く日だ

駅までの道を線路沿いを歩く歩く
遅れそうな時には走ったりもして

いつまでも忘れないでよね

そして欲しがらないでね
無くした物だけ探してあげるわ

布団の中のあんたが寝返りをうつ度に

大事な物はこぼれていったの

電車の中には忘れ物があって
電車の中には忘れ物があって
別れた事さえ忘れていました

冒頭の歌詞には、相手を〝君〟と呼称する人と〝あんた〟と呼称する人が交互に出てくる。

そして〝君〟と呼称する人は、幸せで具体的な情景描写をする。〝あんた〟と呼称する人は不安を含んだ抽象的なことを言う。

ここまでがサビ前で、サビになると〝君〟も〝あんた〟も出てこない、どちらの視点か特定できない言葉になって、2人はすでに別れていることがわかる。

このだんだん視点が広がっていくところに臨場感がある。臨場感があるから小説を読むときみたいに没入できる。

ここに作詞者である尾崎世界観の特徴がある。ねがいりの歌詞もただ言葉として読んだらかなり個人的な表現が多くて、そのままの言葉で共感できる人ばかりではないと思う。

それでも、新しいことを知りたくて本を読むように、尾崎世界観の歌詞からは〝誰かと誰かの間に存在した美しい人間関係〟を知ることができる。

なんせ、小学生の私が熱心に聴いていたんだし、それが証明だよね。当時の私は巷に流れるようなラブソングは軒並み嫌いでラブソングじゃない音楽ばっかり聴いていた。その中で唯一好きなラブソング(を歌う音楽)がねがいりだったしクリープハイプだった。当時はその理由がわからなかったけど、今になってはよくわかる。共感できなきゃ楽しめないラブソングが嫌いだっただけで、共感しないでも情緒を動かせる尾崎世界観の歌詞だから好きだった。

ねがいりの話に戻るけど、〝ふたりがすれ違っている〟とか、〝別れたことを後悔している〟とか、ひとつひとつの出来事に=で結べるような感情の答えを描かないところがこの曲の良さであり、余地だ。

人と人が別れることは一般的に悲しいことだから、悲しみを表現する失恋ソングだと捉えることはできる。

でも、別れて悲しいということよりも、別れる前どれだけ好きだったかってことよりも、〝お互いにとってどういう存在であったのか〟が印象に残る歌詞になってる。

お互いの存在はお互いの日常の一部だったはずで、別れた直後は非日常だと感じながら生活を送っていたと思う。

その非日常もしだいにひとりで生きる日常に変わっていく。その証として別れたことや出会ったことさえも徐々に忘れていく。

でも電車の中の忘れ物みたいに、ひとりの日常の中にもふたりの日常の忘れ物があって、ふたりの日常に振り戻される瞬間がある。

そもそもひとりの日常とふたりの日常の境目自体、寝返りを打つように切り替わり揺れ動くものなのかもしれない。

ふたりの日常に振り切っていた振り子がだんだんひとりの日常に近付いていくことを「布団の中のあんたが寝返りを打つたびに大事なものは溢れていったの」と表現しているんだとしたら、「電車の中には忘れ物があって」という表現はひとりの日常に振り切っていた振り子が、少しだけふたりの日常に近づくきっかけだったのかも。

それが意味するのは振り子がふたりの日常に振り切って復縁することではない。ゆらゆらゆれながら、また誰かとふたりの日常が始まる可能性も示唆しているくらいのこと。

付き合うことも別れることもその後ひとりにもどることも、すべて生活の一部で、自分の人生の中での話。

〝生活の中で、かつて生活を共にした誰かに思いを馳せる美しい瞬間〟をねがいりという曲は描いている。

だから私は、敬意と憧れの念をもってこの曲を聴いてきたし、いちばん好きなラブソングだ。

何より、私が人と関わることに希望を抱き続けている理由だし、まとまりきっていないこんな話を誰かに話したくなってしまう動機でもある。

今日は何にもないただの日だ
君が作った飯を食って仕事に行く日だ
今日は何にもないただの日だ
君が作った飯を食って仕事に行く日だ

駅までの道を線路沿いを歩く歩く
遅れそうな時には走ったりもして
駅までの道を線路沿いを歩く歩く
遅れそうな時には走ったりもして

いつまでも忘れないでよねそして欲しがらないでね
無くした物だけ探してあげるわ
布団の中のあんたが寝返りをうつ度に
大事な物はこぼれていったの

電車の中には忘れ物があって
電車の中には忘れ物があって
別れた事さえ忘れていました

まだ出来てもない歌を歌いたくなってしまうような
そんな気持ちでケーキを買って今から帰るよ
まだ出来てもない歌を歌いたくなってしまうような
そんな気持ちでケーキを買って今から帰るよ

どうしても見えない所はお日様で照らしてね
雨の日は傘を持って迎えに来てね
優し過ぎるあんたが願いを叶える度に
大事な物はこぼれていったの

好きだったジュースも髪の毛の色も
笑った時の顔も泣いてる時の顔も
出会った事さえ忘れていました

布団の中のあんたが寝返りをうつ度に
大事な物はこぼれていったの

ねがいり/クリープハイプ

講義する学生

〝まちくたさんの喋り方は講義だ〟

という指摘を受けた。

単純に一方的だという意味で似たようなことを言われた経験はあるけど、これはもっと踏み込んだ指摘。

先日友人から「人は話すとき、ある程度はあらかじめ考えてきたことを話している。一度考えた経験があることはスムーズに話せる。でもそうやって話したことに対して、あらかじめ考えたことがあるかのような隙のない言葉を返される(←〝打ち返される〟という表現をしていた)と一度思考が止まってしまう。まちくたさんは思考の歯車を回し合いたいから相手の言ったことを打ち返してるんだろうけど、今の打ち返し方だと逆に相手の思考の歯車を止めてしまっている。」という趣旨のことを言われた。

この〝打ち返し方〟が講義のようだという話。

一方的であることの例えとして講義や授業を引き合いに出すことはあるが、本来の講義はあらかじめ決まっていることだけを一方的に話すものではない。情報を提供するだけの一方的な講義ばっかりだけどそれは講義が下手なだけ。本当はそんなの講義とは呼ばない。

本当の講義とは複数に同時に話しかけることであり、言葉を交わさずに受講者の思考の歯車を刺激してぶん回すことだ。

良い講義は、終わった後すごく疲れる。頭が働きまくって次から次に考えたいこと調べたいことが浮かぶ。授業で言っていた細かい知識は忘れてしまっても、そこで体感した考え方自体はずっと残る。講義をしている側も講義をしながら受講者たちに応じて思考の歯車を回す。そして双方が講義を通して学び変わっていく。

今まで受けた良い講義や授業はすべてそういうものだった。そして大学に入って教職課程の講義を受けていてもそういう授業を作りなさいと教えられる。

だから〝まちくたさんの話し方は講義だ〟という指摘は言い得て妙だけど少しだけ違う。より正確にいうなら。〝まちくたさんの話し方は下手な講義だ〟になる。

私は自分の話し方に改善点があるとずっと思っていたけれど、具体的にどこがダメでどう直していったらいいのかは漠然としか掴めていなかった。

でも漠然としているなりに〝私は絶対に教職を学ばなければならない。教員になるかどうかに関わらず人間として教員になるにふさわしい能力を身につけなければならない〟と半ば強迫観念に近いレベルで思っていた。

どうしてそう思うのか答えが出た気がする。それは私の話し方が下手な講義だったから。

たぶん講義みたいな話し方自体を捨ててしまう必要はないんだと思う。もちろんそうじゃない話し方も身につけるべきだし使えるようになりたい。でもせっかく私は名前のついた1人の人間なので、自分の美しい個性として持っていたい。いまの話し方を上達させて相手の思考の歯車を動かせるような話ができるようになったとき、私は私らしい人として堂々と人と関われるし、教員という憧れの職業にも就けるんだと思う。

一時的に大学に注力が偏っていることも飽き足らずに人と話し続けることも忙しいブラックだと言われる教員を目指すことも全部繋がってる。

全部間違ってない。

わけがわからないながら無作為に始めてしまったようにみえることたちは全部必要だった。

私のことを真剣に考えられるのは私だけだったけど、最近は私以外の人たちがたくさんの言葉をくれる。それは感心や昔の自分への投影の下に年上の人たちからもらう教えやアドバイスなんかじゃない。一緒に、わけがわからないまま考えてたまに生まれる出来立ての言葉。

自己分析ってさ就職のときに初めて自分だけで考えるようなもんじゃなくてこうやって徐々にわかっていくものなのかなって思う。

理想論なんだけど、私は現実にできる。

というか現実にしよう!

全部の理想論を現実にする。

どうせ限界突破なんてできないんだからできるだけ全部やろう。

できればみんなも一緒に