雑記

光っているとっておきの情熱をチルドしてく

夢を見ている

さっきお昼寝中に見た夢。

私は時速36kmのライブを見ている。最初期の代表曲「夢を見ている」が始まって私は歓喜する。でもイントロが終わっても仲川慎之介が歌い出さない。

この曲の冒頭でフロアの合唱を煽ることがあるから歌い始めないのを聞いてみんなが合唱しだす。いつか仲川さんが歌い始めると思うんだけど一向に歌わないままフロアの合唱だけで演奏が終わる。

終演後振り向くと仲川さんがいて思わず「夢を見ている(で歌わないの)今回だけですか?これからずっと?」と聞く。すると仲川さんは「うん、これからずっと。」と神妙な面持ちで答える。私は何も言えなくてただただ悲しみにくれて会場を出る。

ここで目が覚めた。

こんな夢がなんなんだって話だけど、見た理由にめちゃめちゃ心当たりがある。

それは昨日のこと。時速は昨日久しぶりにデイジーバーという下北沢の小さなライブハウスでメメタァというこの上なくかっこいいバンドと対バンライブをしていた。そしてライブ後、ベースのオギノさんがとある注意喚起のツイートをした。

転換中にメンバーに対話形式で話しかけるのやめてくださいこっちも大人なので以後喋りかけられても別に喋りますけどあぁそういう人ねという判断は下すくらいのことはします
終演後は気張ってないので基本okです(セトリはあげられないんだけどね)

byオギノ@ogino_36km 

https://x.com/ogino_36km/status/1781330403800060099?s=46

当たり前だ。当たり前の話だ。時速は今まで演者とファンの関係性については言及してこなかったけれど人と人のマナーがきちんと守られていないと思ったからオギノさんは発信したんだろう。別に心無いヤジを飛ばしたとかじゃなくても友だちじゃないし真剣に仕事してる最中の人に気軽に話しかけていいわけがない。

小さなライブハウスから叩き上げで大きくなったバンドは、人も少なく活動の仕方もゆるい頃にはある程度バンドとファンの双方向のやり取りが黙認されてることが多い。バンドが大きくなるにつれて明確な線引きがなされ許されなくなっていく。そこら辺きちんと更新できないファンは昔気分のままうっかりした行動をとって相手に迷惑をかける。特に今回みたいに昔よくやっていた小さな会場だと余計に緩みやすい。今までは暗黙の了解で賄っていたけど言及せざるを得ないきっかけが昨日のライブだったのだと思う。

もちろん、昨日のライブ一回で一線をこえたわけではないだろう。ゲージギリギリまでたまっていたものがたまたま昨日こえてしまったということも十分にありえる。

上記の注意喚起はオギノさんが個人でした昨日のひとつの事象に対するものだけど、私はどうしてもバンド自体が不明瞭だったファンに対する扱いに明確な線引きをした表明に思えてならない。

たとえば仲川さんのインスタグラムアカウントが削除されていることとか。まあバグなのかもしれないし間違えたのかもしれないし全く関係ない理由で消さざるをえなくなったのかもしれない。でもこのタイミングで消すってどういうこと?仲川さんのインスタグラムはインスタライブでコメント拾ったりファンともざっくばらんにDMしてるらしい。だからそのアカウントを消すということがファンとの近すぎる距離感に終止符を打ったと見えなくもない。

仲川さん側から消えたインスタについてなんの言及もないしこれは私の妄想。博物館にある土器につけられた根拠のないキャプションのようなもの。

そもそも消えたなら消えたで、ファンに線引きしたならしたでどうってことない。私がこんなに気にする必要はない。それは最もだ。

現に私が観測する範囲でよく時速のツイートをしている人たちはぜーんぜんオギノさんのツイートにも仲川さんのアカウントが消えたことにも言及しない。それがファンとの線引きの表明だなんて言ってる人は1人もいない(←楽しいことにしか言及しない人たちではないのに)。私のように深刻にはとらえていない。

でも私は、どうしても、重要なことに思えてならない。みんなちゃんと考えてる?そう問い掛けたい場面が多すぎる。時速に限ったことではない。

つい最近、私の好きなアイドル20th century(トニセン)のファンがザワザワしていた。今渋谷にはトニセンがプロデュースする喫茶店があり、ファンの天国みたいになっている。私物がたくさん無防備に注意書きもなしに飾ってあってそれをファンは指一本触れずに大切に眺めて楽しんでいる。そこで無遠慮にディスプレイに触るお客さんが現れてその是非が問われていた。そもそも喫茶店のコンセプトはファンだけじゃなくて普通の人たちに普通の喫茶店として長く愛されることを理想としている。だからファンの正しい振る舞いを求めるなんてナンセスだ、という気持ち。それとそもそもマナーとしてお店のディスプレイに勝手に触るべきなのか、という気持ち。そして、トニセン本人はどう思っているのかというわかりえない疑問。ファンの人たちはディスプレイに触るなんてありえない!とリンチするわけでもなく、人として非常識だと責めるわけでもなく、自分の違和感が起点ながらもそれに左右されず多角的に一生懸命自分の認識と振る舞いを考えていた。

私は時速の一件でもこのくらいの議論が巻き起こっておかしくないことだと思っていた。実際他の話題で似たような議論が巻き起こることもある。なのにどうして誰も何も言わないの?

全部全部SNS上での話だ。しかも公の。面識もない他人にわざわざ公の場で言及するなどそれ自体が失礼だ。やらないで済むならやらない方がいい。

でも私は考えてほしい。というかみんなが考えているのかわからなくて不安だ。みんなというのは時速のファンって枠をこえてもっと大勢の人たち。〝みんな〟とか実態もない対象にご意見する私がいちばんナンセンスだって言われたらそれまでだね。

だけど、でも、考えようよ。

褒めてるつもりで失礼なこと言わないで。間違えた振る舞いを指摘されたらきちんと受け止めて。あなたと憧れの人がどういう距離にいるのか考えたことある?

仲川さんの声が聞こえなくてフロアの合唱だけが響く夢。どんなファンがいるかなんて何十年もして音楽だけが残ったら何の意味もなさないことだけど。私が何か望めば望むほど見当違いも甚だしいんだけど。

それなのに、何か、何かがあるはずだと探してしまう。戻らないものの輪郭を辿ってしまう。まだわたしは未熟すぎる。

 

#詩

本当らしさ

今日は大学で初めて講義を受けた。特に面白かったのは人文学入門と題して人文学部の先生たちがそれぞれの切り口で1コマずつリレー方式で授業をしてくれるという神授業。履修必須な分、抽選も必須でこのまま履修し続けられるかはわからないんだけど1回目の授業から面白かった。

初回授業では、オーストラリアの小説家(&劇作家)のロベルトムージルの研究をしている先生がムージルの『トンカ』という作品を取り上げていた。キーワードは「本当」と「本当らしさ」。

『トンカ』のあらすじを説明すると、ブルジョワ階級の科学者の主人公が労働者階級のトンカと恋に落ちる。しかし主人公が長く家を留守にしている間にトンカの妊娠と性病が発覚した。主人公の周りの人々はみなトンカが不貞を働いたのだというけれど、トンカは頑なに認めない。主人公はそんなトンカの潔白を信じることにするが、、という〝自伝的な〟短編作品。

自伝的と呼ばれる理由は作者であるロベルトムージルの日記にある。ムージルの日記の中に作中のトンカと境遇の似たヘルマ・ディーツという人物の記載があるからだ。トンカにモデルがいることはムージル研究者の中でも常識らしく〝本当〟のこととして扱われている。しかしトンカのモデルとされるヘルマ・ディーツという人物がこの世に存在していた証拠はムージルの日記以外に存在しないという。公的な記録も一切ない。身分の低い労働者階級だったから正式に記録されていないと考えることもできるが、いずれにせよ〝客観的な証拠はない〟のに〝人々はトンカのモデルは実在すると信じきっている〟という点に先生は着目する。

これは『トンカ』で主人公の不在時に子どもを身籠ったトンカを人々が〝不貞を働いたに違いない〟と信じきっている違和感に重なる。

たしかにムージルの日記にはヘルマに関する記載がある。たしかにトンカは主人公の不在時に身籠った。しかしヘルマが実在する証拠は日記以外にないしトンカは不貞など働いていないと言っていて身籠っていること以外に不貞といえる根拠がない。それでも人々は99.9%の確率で〝本当らしい〟ことを本当のことだと捉える。

逆に言えば0.1%の本当らしさもまた本当になりうる。主人公は色々苦悩したりしつつも0.1%の中に存在するトンカ(不貞は働いていないというトンカ)を信じようとする。99.9%の本当らしさに埋もれてしまっているトンカ自らが示すトンカの姿を理解しようとする。

その過程は文学における〝比喩〟そのものだ、と先生はいう。

比喩でする例えは非現実的だけれど、それが非現実的であるということは気にならない。例えば「卵のような肌」といったときに卵が肌であるなんて非現実的だがそれをわざわざ問わなくても、どのような肌かは伝わる。

主人公は〝(自分の不在時に)妊娠したけど不貞を働いていないトンカ〟のことを比喩のように捉えてトンカの非現実性をいったん受け入れることで、トンカを理解した。

人々が何の疑いもなく本当だと思っていることは所詮本当らしさでしかない。限りなく本当らしいことが本当として扱われるのが現実世界だが、文学というアプローチでは、もっともらしい本当らしさの中に埋もれてしまった別の本当らしさを見つけ出すことができる。

科学者だったムージルは99.9%の本当らしさを本当だとする世界にいたはずで、そのことへの懐疑やら思考の果てにたどり着いたのがムージルの日記であり『トンカ』の執筆なのではないか。

というのが授業の概要。

最後に先生が「こういうことを考えるのが人文学です。」と言って人文学入門の初回授業が終わった。

もうこの文章がまるごと最近私が考えていたことと言っても過言ではないくらいタイムリーな話題だったからびっくりした。

わたしはマジョリティな本当らしさに埋もれた少しの本当らしさを見失いたくないと思う。でも少しの本当らしさを尊重して扱いたいと思うことがどういうことなのかわからなかった。論理の破綻?理屈の無視?そうではないはずと思っていてもならどういうことなのか説明できなかった。この講義を聞いて完全に説明できるようになったわけではないけど、私がぼやぼや抱いているお気持ちも学問的に検証できるのかもしれないと思った。卒論何書こうなんてぜんぜん、分野すら決まってないけど、これからいっぱい勉強した暁には良い論文が書ける気がする。!

引き続きドライビングファース全開でがんばるぞ!

 

名前をつけてやる

『私は太田光です。あなたの名前は何ですか?』自分の名を名乗らずに好き勝手なことを言う行為がまかり通る世の中。名前を言わない者の言葉は残念ながら「意見」ではなくただのノイズだ。名を名乗れ。名乗ることは人や物が初めにする「覚悟」だ。名前があり、初めて存在がある。第二回となるこの大会で、私は審査委員長として多くの「覚悟」を見ることになるだろう。今からとても楽しみにしている。

「日本ネーミング大賞 2021」公式WEBサイトがOPENしました。|一般社団法人 日本ネーミング協会

2021年の日本ネーミング大賞に審査委員長である爆笑問題太田光が寄せたコメント。

太田光と言えば、私が何年か前にまっちゃんを批判した直後に太田光が好きだという趣旨の発言をして一悶着起きかけたことがある。太田氏を褒めたことよりまっちゃんを批判してしまったことの方が原因なんだけど「太田を褒めるやつは大体お笑い以外のところで褒めてる」「太田を面白いと思ったことがない。あんなのお笑いじゃない」等々と松本人志甲本ヒロトが大好きなひとに言われふつうに涙目になった🥲

私は爆笑問題が絶えず披露する新ネタにいつも笑っているしゆるキャラをなぎたおしたり乱入して叫んでる太田光を面白いと思ってる。太田上田で話すエピソードトークなんかちょー面白いじゃん!だからこそ発言の節々にも力を宿せるんでしょ!お笑いじゃないってあんた、勝手にお笑いのルール決めて競技みたいにしたのはどこのだれだよ!なんて言い返すことはしませんでしたが💧とにかく太田光という人物は面白いからこそネタ以外の発言もひとつひとつが興味深い稀有な芸人だと思います。

話を戻しますけど、私はこのコメントに完全同意だ。

私がインターネット上で名乗らない理由はまだ覚悟したくないからに他ならない。

言葉を代えれば「まだ俺になる前の俺」でいたいから。

時速36kmの死ななきゃ日々は続くという曲に「まだ俺になる前の俺にしか言えない言葉があるのさ 探せ」というフレーズがあります。

自分の十数年間の人生を振り返ってみると、身体的にも精神的にも目まぐるしく変化していたと思う。

今の自分は半年後には全く変わっているかもしれない。数年後どうなってるかもわからない。そんな地に足のつかない状態だと、自分が自分自身であると胸を張って言える根拠が見つけられない。何か言っても数週間後には変わるかもしれないと思うと自分の言葉だとは思えない。

だから、私は名乗らない。〝自分はこうだ〟と確定させることでその存在が浮き彫りになる。その象徴が名乗るということなら、私はまだ自分ではない何かが言うことやすることをそのままの状態で知りたいから名乗らない。ここに書くこともXで何かいうことも本名を伏せて行っていることすべて〝まだ俺になる前の俺にしか言えないこと〟でできている。だから、何かと名前にこだわったりしちゃうんだよね。それでひとを困らせてしまったこともあります。ごめんなさい。

でもやっぱり名乗らない言葉はただのノイズだ。ノイズはノイズでいいけれど、結局は名乗る覚悟をした上で言ったこと行ったことが重要だ。今は絶賛大学受験期間佳境編ですけど、自分で進路を決めるということ自体が、名乗ることと同じように自分を自分たらしめる覚悟の一種だと思う。名前と肩書き。朝井リョウの『何者』という作品にも「(就活について)今までは周りが小学生とか中学生とか私達の肩書きを与えてくれてたけどこれからは自分で肩書きを得なきゃいけないんだね。」なんてセリフがありました。

ありがたいことに私は大学受験の段階では金銭的な負担などが100%自分の責任なわけではない。でも、私がする行動やする選択に自分の肩書きが大きく左右されるという状況にいることは確かだし、ここまでの規模は私の人生で初めてだ。

そろそろ自分ではない自分の適当なノイズをぷかぷかさせているだけではいけない時期に入ってきたんだと実感する。それにはあまりにも覚悟が足りなすぎてヒーヒー言ってるのが現実だけど、ちゃんと始めなきゃいけない。もうこれから私が進んでいく場所は何者でもない自分ではいられなくて、自分の名の下にある自分の存在がないと進んでいけない。

そんなことを考えていたら3年弱前の太田光の言葉を思い出した。

考えてみれば、爆笑問題日芸で結成してるし、時速36kmも武蔵で結成されたバンドだ!ちゃんと名づけられる人でないと、良い大学生にはなれない。

 

名前をつけてやる 本気で考えちゃった

誰よりも立派で 誰よりもバカみたいな

(これはスピッツ

見ず知らずのアイドルオタクのブログに感動した話

今日も今日とてアイドルの話をしてやる‼️

 実は私、黒髪フェチでして。

常日頃あらゆる方向と状況で誰かの見た目を〝いいな〟って思っているものの、ふと考えると黒髪の人にグッときてることが多い。

自分自身髪を染めたい欲というのが全然ないし、森高千里五輪真弓重信房子のような綺麗な黒髪に憧れる。それか志磨遼平や森田童子みたいな黒髪パーマ。大学生になったらします。

思えば私が最近大好きなアイドルも30年以上の長いキャリアで髪を染色している印象がない。

少し気になったので、ほんとに染色歴がないのか調べていたらとあるブログがヒットした(本題)。

 その記事はファン歴は20年を超えるという古参ファンが書いた2020年ごろのブログだった。当時何十年ぶりに髪を染めて歌番組に登場しファンをざわつかせていた自担(=私の好きなアイドル)について書かれていた。筆者いわく、自担は(デビュー当時に一瞬茶髪にしていたこともあるが)周りのアイドルが総じて髪を染めている中1人だけずっと黒髪だったのだそう。この時点で当初私が気になっていたことは解決した。だから「ほとんど染色歴のないアイドルが好きなんて私ってやっぱ黒髪が好きなんだ〜💦」と小っ恥ずかしくなりつつ退散してもよかった。けど!その後に続く文章に私は心動かされたという話がしたい‼️

 どんな文章か一言で言うなら〝感情に理屈をつける〟のが上手い文章だった。

 そもそも〝好きであること〟に言葉はいらない。だって感情だし、生理現象だから。

それでもわざわざ言葉を紡ぐのはどういうことだろう。なぜそんな感情になったのか理由を考える、その感情自体を言葉で表現する、自分の感情を通じて好きな対象について何か考えられることを見つける、こんなあたりかな?

こうやって羅列するのは簡単だけど好きだというポジティブな感情は純度100パーセントで言葉にするのが難しい。他者に言及してる以上どうしても正確な事は言えないし愛が根底にあると一方通行が加速して品が欠けたり失礼なものになりかねない。

 そんな中で件のブログは〝自担が突如茶髪になったことへの驚き〟という感情を出発点に美しい自担への考察がなされていた。その上、筆者の愛も伝わってきてとてつもなく愛おしいものになっていた。

 私は心動かされる存在や出来事には積極的に言及したいと思っている。でもどんなふうにしたらいいのかそもそも言及していいのかと日々悩んでいる。だから見ず知らずの同担(⁉️)のブログにひとつの模範例が見れた気がして嬉しかった。

 自分以外の対象にも美しい言葉が紡げる人になりたいぜ!

センチメンタル・ジャンキー

体と心が自分の思い通りに動かないって感覚がある人とない人がいる。

体のことも心のことも考慮する必要のない人の言うことを真に受けててもしょうがない。

思えば私は随分と昔から体も心もコントロールできないことを実感していたのかもしれない。

体育の時間がずっと苦痛だった。言われたこと理解したこと実際にできること、全部がチグハグ。〝教えて〟くれる人たちというのは楽器に例えれば楽譜を教えてくれてるだけ。そもそも音の出し方わかんないですけど?みたいな私たちの感覚なんぞ想定してない。想定できない。

頭の中だってもっと静かになってくれればどんなに楽だろう。

急に頭の中がぐるぐるして息ができなくなってパニックになる。

でも電車の中で急にお腹痛くなるときみたいに落ち着くまで痛みに耐えてひたすらジッと我慢するしかない。

そんなのが何年も続いている。

体育の授業だっていつもジッと鐘がなるまで待つしかなかった。

この世にはどうやら体や心のことを考慮せずに行動できる人がいるらしい。

両方とも考慮しなくていい人もいるし、どちらか片一方は考慮しなきゃならない人もいる。

どちらにせよ、考慮しなくていい人は考慮しなきゃいけない人の感覚はわからない。その逆も同様。

朝起きてすぐ我が身ひとつで遠出できるような身軽さが365日続く世界で生きてみたかった。

体のスピードに合った脳の解像度で無駄に焦らずにいたい。

僕たちの目は見えすぎてずっと宗教のように絡まる。僕たちの体は繊細すぎてずっと足を引っ張ってくる。

思考も体調も能力も全部が乖離して空中に浮いている。

それがずーっと続いている。

終わらないのか。

でも多くを知る人は目が良くなる優しくなる頭が良くなる(それが生活にこれっぽちも役に立たなくても)。

どうせ老いたら体のコントロールは効かなくなって頭とのギャップは開く。心のあり様だって変わっていく。

誰に遅れていても、続けよう。

意味じゃないし形ではない。ここではきっと。

誰にも何も言われる筋合いはない。

会って話を

相変わらずV6および20th centuryおよび井ノ原快彦氏にはまっています。私の精神はかなり限界なのでもう癒やしのプロの手にかからないとまともでいられなくなってきた。

いやはや、未来というものが見えなさすぎることがすべての憂鬱の原因なわけで。ずっと背中を追っているヒーローたちは私より10年くらい先を生きてくれているわけだけど、10年くらい先の具体例があったところでまだ不安は拭いきれないんですよね。

だから私の想像に及ばないほど遠く、しかし今と地続きな未来をみたい。そういう意味で大人の思惑に満ち溢れた喫茶二十世紀が楽しかった。そしておそらくみなV6やトニセンのファンであろうお客さんたちと同じ空間にいられるのが刺激的だった。

街中でみるかっこいいおばさんとかきちんとしたお姉さんとかが1人でコーヒー啜ってたりそーっとトニセンの指人形だして写真撮影してたりするのが妙に素敵に見えた。

常々思うしたまに言っているが、10代そこらの子どもの前に現れる大人なんて限られすぎている。普通に成長して生活を営んでいる人たちの大半は自分の子ども以外の子どもにそう頻繁に会わないだろう。教職についてる人くらい。

だから、自分の未来のバリエーションとしてみるには自分から観測できる範囲の大人たちは特殊すぎて不安になる。

でもV6やトニセンを通して自分から観測できる範囲の大人が増えた気がする。

ラジオやブログのお便りひとつとっても「40代をすぎて晩酌の良さがわかりました(以下めっちゃ良い文章)」とか私がまだ想像もできない、だけど未来になりうる人たちの日常が覗き見できて心が楽になる。遠くて到底辿りつけそうにないように思える未来もちゃんと今から地続きで繋がっているんだと思える。

私にとって一種の換気みたいな新しい風を吹かせてくれる存在になっている。

たそがれたかこ(←要ちぇけら!)という漫画を読んだ時と同じ気持ちだ。

V6の楽曲が良すぎる話をしようと思ったんだけど全然違う感じになっちゃった笑

ひとつ言えるのは堀込高樹は歌謡曲の天才です。

まああんまりブログなんかに時間をかけていられないからな。散文どころか錯乱文になっている気がするけどいつもそうだしご容赦を!

シーセイド

あああ、ゆれるという音楽は私にとって史料だった。何度も繰り返し聴いた曲たちは私の体温と合致していた。だけど私にとってゆれるとはどんなものからも独立していて静かな自分の世界にいるときだけに流れてくる音楽だった。生きて目の前で再生されるなんて思ってもみなかった。

でも現実では今現在ゆれるは頻繁ではないにしろライブをやってる。ただ地方だったりチケットが当たらなかったりで行けなかっただけだ。

それが電車で40分の場所でライブをするっていうんだから半信半疑でチケットを取った。

そして信じきれないまま気がついたら今日になっていてライブハウスにきた。

ずーっとずーっと信じられなかった。

10年前と表示されている動画に写っていた姿より少し深みが増していて、でも紛れもなく同じ顔をした人物が目の前に表れた。何回聴いても同じ音だった音楽が大きなうねりを帯びて爆音と共に聴こえてきた。

〝私のモノだった音楽〟が〝私とは関係なくただそこに存在し自在に変化していく生きもの〟に変わる瞬間が好きだからライブハウスに行くんだと思う。

それは私と音楽が切り離されてしまうことでもあるけど、同時に一体化していた音楽と私との間に距離という名の関係性が生まれることでもある。

AKGRBRND

手に入らないくらいがいいね

あなたとわたしのこの距離をうたう

ABZRBRND / ゆれる

ごちゃごちゃ言ってるが、Amiが俺の目の前に出てきて歌った、Amiが俺の目の前に出てきて何年も繰り返し聴いたのと全く同じ声で歌を歌った、それだけで十分だった。拳や指先ではなくて爆音でぐちゃぐちゃにされる快感があって、それは今目の前にいる他人と私との一方的すぎる関係性に何よりも相応しいものだった。

焦燥感は唯一の取り柄かもしれないのにそれすらも持て余して疑っている。

ラソンで開始直後に全力疾走してる人みたいな、意味がなく無理して時間稼ぎをしているだけ。はやくしないと間に合わない。

〝日々は波のように意味はないらしい 人は流れて 意図は愛おしい〟

意味のない日々に流されて焦って何もできないでいる。見当違いの抗いとして意図がある。せめてそれは愛おしいものであってくれ。

法律や道徳や結果で肯定できないことをゆれるに肯定してもらってました。肯定してもらうっていうか肯定されないものはないことにしちゃうから、知らず知らずに殺していた感情やら思考をゆれるにかたどってもらっていた。

今日も手放していたすべてが引っ張り出されるような、今までひとりで聴いて作り上げてきたゆれるに関するすべてをひっくりかえされるような時間だった。

誰よりもはやくどこまでも行かなくては。

昔の話は なしにしよう
動かない時計は美しいけれどさ

相変わらず 興味の尽きぬ意図を
手繰り寄せて少しだけテンションをあげる
それは赤いかい

僕は冷たい床の上 平熱の身体
偏ったプラス思考の脳に呆れて
笑えなくなる

日々は波のように意味はないらしい
人は流れて 意図は愛しい

赤い破壊、邪魔するな

僕は 不意に現れる焦燥感でさえも
悲観してるような気がして
そしてどうでもよくなった

それでいいの?
間に合わない

サンキューサンキュー この孤独
サンキューサンキュー 哀しみも
サンキューサンキュー 出逢いもそう
真っ当に生きるよ

赤い破壊 / ゆれる