雑記

光っているとっておきの情熱をチルドしてく

Can do! Can go!

ここ最近は毎日お昼12:00きっかりに更新される井ノ原快彦氏のブログだけが癒しです。

私はほんとに秋が苦手で。秋の過ごし方をしくじった年はとんでもない冬を過ごすことになる。季節に殺されることってあると思っていて、きっと何か原因があるわけではないんだと思う。焦ってしまうけど焦ると冬が丸ごとダメになってしまう。その方がずっと大変なことなので落ち着いてできることをしっかりやる方がいい。だから気晴らしにいつもと違うこと書いてみようかなーというしだい。

さて、急にイノッチを心の拠り所にしだしてどうしたんだって話ですよね。話なんです。ちゃんとツッコんでくれてますよね?

いやーもう例によって荒む時期なので心が乾燥してるんですよ。怪我してるとかじゃなくてカッサカサだからいつもはいらないような甘々でうるうるのコンテンツが響いてしまうんですよ。

私は推し活こそしないもののアイドルというものが好きで、幼稚園の頃は前田敦子に憧れてました。

しかし小学校に上がったくらいから逆張りを覚えしばらくアイドルのことは考えることがなく、私のアイドル愛が復活するのは中3まで飛びます。

中3のときはなんと言っても松田聖子‼️が好きすぎてずーっと聴いてました。何が良いって声がいいんだよな。はっぴいえんどリードボーカルがいないなんて本人たちが言ってるの聞くけどはっぴいえんどリードボーカル松田聖子だろ!って持論をゴリ押ししてるくらいには聖子ちゃんの声大好き。かなり偏った私の音楽知識から聖子ちゃんの歌唱にいちばん似てるのは宮本浩次だと思ってます。聖子ちゃんの真っ直ぐでど迫力な歌唱は硬派なロックミュージシャンみたい。それでいてアイドルとして本当にかわいらしい。私は〝こういう人がタイプ!〟が絶対的にあるってよりかは〝その人がいちばん輝いて見える状態〟が好きなタイプなので聖子ちゃんみたいに自己プロデュースがガッチリハマってるアイドルはたまらないのです。

というわけで松本隆とか筒美京平を追ってた時期だったのも相まって昭和歌謡周りからアイドル好きの自分復活。

すぐに森高千里の良さにも気づいた。本当に好き。あんな江口寿史の世界から飛び出してきたみたいな人いていいの⁉️これはひばりくんですか?グミチョコレートパインの山口美甘子の擬人化ですか?森高はとにかく美しいから好きです。あと何と言っても作詞のセンスが良いね。森高の歌詞大好きです。

ちょっと長すぎるから他にも好きな人たちたくさんいるけどここら辺でやめてナウな話題に行きます。

そう!ジャニーズね!ジャニーズにハマってるんですよ〜実は。今の今まで男性アイドルって聖子ちゃんとか見るついでにベストテンとかでみてもイマイチ刺さらないし、同級生とかが推し活しながら楽しんでる今流行りのアイドルたちも全然ピンとこなかった。それが急にきましたね。きっかけは先述した井ノ原くんです。

ひょんなことから(察してくれ)9月初めくらいに「井ノ原快彦ってちょーかっこよくないか?」と突如思ってしまったんですね〜。井ノ原くんのことはV6の人でジャニーズアイランドの社長でアド街とかんぽ生命のCMに出てる人って印象で「主婦に人気ありそー」くらいにしか思ってなかった。でもそれがむしろ助走になってV6でのかっこいい姿のギャップにやられてしまった...

こういうこと書くのほんとにないからまちくたオタの人はウハウハなんじゃないですか?てかウハウハしてください!まちくたに興味を持って‼️

ジャニオタの世界が世界としてどれだけ確立されていて独特な文化を築いているのかはなんとなくわかりますから、できるだけ大人しくしておきたいし軽率なこと言いたくない。けどV6ってちょーかっこいい!!

V6自体知ってはいるけど印象が薄くて、私が生まれた頃には学校へ行こう!も終わってたし知識だけで全然知らなかったのよね(惜しいことしたよ、、)曲も愛なんだとWAになっておどろうしか知らなくて初期はあんなカッコいいユーロビート調の曲をたくさんだしてたなんて知らなかった!(星野靖彦天才!)

私はavexとか小室哲哉系の音楽結構好きなんだけどヤンキーチンピラパリピ感があるのが多くてそんな何でもかんでもハマらないのよね。

そういうavex系の曲をさわやかで大人っぽいV6(はavex所属)が歌ってくれるとちょうど私の好みにチューニングされたようで理想的すぎる。

ヤンキーでもなくショタでもなく〝大人っぽい〟男性アイドルはいないのかってずっと思ってたんだけどV6だったのかーってなってる。

この落ち着いたとか大人っぽいってイメージは最近のV6からきてる。

実は解散する前にMステでV6みてたのよね。マジで後出しだけどそのときに「あーなんかV6ってかっこいいな」って思ってたの!今思えば笑。変な仲良し演出みたいなのもなくかっこいい大人がかっこいいことしてるのが良かった。

まだV6の全楽曲半分も聴けてないんだけど最近のだとThe ONESってアルバムがかっこいい。2017年のやつ(私はその頃teto!サニカー!リーガルリリー!ってなってた)

私はやっぱりトニセン(井ノ原坂本長野)が好きなんだけどカミセン(三宅森田岡田)の美意識に合わせる?トニセンが良すぎる!とも思う。(ほんとごめん先に謝るめちゃくちゃ軽率なことを言ってるよね私は雑なことというか、ごめんなさい。)だからV6には明らかに毛色の違う人たちが同じグループで何かやるからこその良さがある。アイドルがグループであることの良さを初めて実感できたかも。

私は推し活が性に合わなくてできないから、推すことが醍醐味みたいな若手のアイドルとかは胸焼けしちゃうんだよね。だから既に歴史があるアイドルを後から自分のペースで掘り返せるって状況も都合良すぎてありがたい。

V6は解散してるけどトニセンはバリバリ活動してフジファブリックやら曽我部恵一やらに曲提供してもらったりまた別のおもしろいことやってて良い。トニセンも推せ推せ推せ!みたいな雰囲気じゃないから笑わたしでもゆるく追えそうな気がする。気がするからFC入った(←やばい)人生初FCですよ18歳にして。人生わかんねー。とはいえ他人の畑で調子にのったら即炎上ですから、トニセン界隈を遠巻きに見つめつつ他の好きなアイドルと同じように楽しむ所存です。

追記

すべてのきっかけである井ノ原くんのことは完全に身体的な特徴(要するにイケメンだなーってこと)と話してるときの雰囲気とかで好きになったんだけど、井ノ原くんってフォーク好きではっぴいえんども好きで曽我部恵一と友だちで好きなレーベルはURCな人らしくて驚愕してる。お笑い全く詳しくないものの好きな芸人聞かれたらナイツって答えるくらいツボだったナイツの塙氏が実は細野晴臣大好きって発覚したときみたいな、なんでだろう?私って人が放つ細野晴臣が作る音楽を好きになるセンサーを無意識に感知してるのかな?

まあとにかく楽しいことが増えてよかった。秋の夜長を着実に焦らず乗り越えます。乗り越えるだけじゃなくてしっかりやるべきこともやりながらね。

受験終わったくらいにはトニセン喫茶予約できるようになってるかなー。

Beat your heart

〝感情は客観的事実で否定できない〟ことに徹底的に向き合ってる重要さを考えたら「もっと自信持て」とか「私は評価してるのに」なんて言葉はなんの意味も成さない。

慰めの言葉としては機能するのかもしれない。けどそんなのは身近な人が言えば十分。

どうせ何もできないなら、せめて自分のために他人としての真摯な向き合い方を考え続けた方が良い。

私は生身の人間に寄りかかるにはひねくれすぎてるし頭が良すぎる。

だから音楽とか遠く離れた場所にある誰かの表現にわざわざ寄りかかりに行く。

それを想定して〝期待してくれたっていいぜ〟って言われるから心臓を叩かれた感覚になる。実は、嘘がないとか素直とか共感できるとかそういうところに本質はないのかもしれない。

できた人じゃないし全員他人だと思ってるし、でも人に興味があって、だからこそブチギレたりしてる。

変わり続けることや違うことが前提として当たり前にあるからこそ、その人たちのする活動に興味が持てる。新譜を追ってライブに行って、そんなことが気づけば何年も続いている。

推さなくていいし飽きなくていい。推さずに飽きずに好きな表現に触れ続けられるなんて素晴らしいことだな。

推進力。頑張り続けてくれ。前に進み続けてくれ。期待させてくれ!

#とあるミュージシャンのインタビューを読んでの感想

不幸に酔ったクソガキに

推しとかカリスマとか恋愛とかもうオワコンなんじゃないかって心配してる。

仕組みとして機能してなくないか?いろんなところで実は成り立ってなかったってバレ始めてる気がする。

ごめん、私の中だけだ。私にとって終わってるから全部終わって見えるだけだ。でも話半分にきいてほしい。

例えば私は〝推し〟という言葉が好きではない。

さも自分が推してる相手に影響を与えてるかのような表現じゃない?

好きは自分が抱いてる感情のこと。それをわざわざ〝推し〟って言葉に変えるのはどうして?

それは自分が相手を〝推せる〟と思ってる(前提で考え行動する)ってことじゃない?

それも〝自分の推したいように推させてくれる相手〟を指してることが多くないですか?

完全にテレビの向こう側の人で関わりがないなら自分の都合を投影させてもいいのかもしれない(それでも無問題ではないって発覚したのが最近だったりして...)。

でも推している対象と実際の関わりがあるのに〝推し〟なんて表現を使うのはどうなの?邪悪とさえ思う。友だちになりたいじゃダメなの?恋してるじゃダメなの?バグった人との付き合い方を正当化してるように思えます。楽に人と関わろうとしてない?そんなの歪すぎる、し、実際歪すぎるって言ってる人もチラホラいる。私は私が好きな人が無責任に推されてたら悲しい。ぞんざいに扱わないで、って思う。思うだけしかできないけどね。

もっと丁寧に人と関わってくれって思うことが多すぎる。人間関係のショートカットを許すなよ、、

丁寧に人に接するってのは人のすべてを理解しろとかそんなことではない。

むしろ〝他人に自分を委ねるな〟ということ。

「これを信じていれば安心だ」「この人に委ねれば私は楽しくなれる、幸せになれる」一見そう思えるものは無数に現れる。でもいざ乗ったらすぐに沈没する泥舟でしかない。「裏切られた」とか「そんなはずじゃなかった」とか何度言ったら気が済むんだろうね。

泥舟が沈む前に次々と渡り歩いて行けばいいのかな?でもそんな自分嫌だ。

だったら自分は自分で立つしかない。

Q じゃあ自分で立つってどういうこと?

 A 自分で立つっていうのは孤独を守り続けることです。簡単に理解されないことです。

Q へーじゃあ誰かに自分を委ねず自分で立って、その上で好きとか憧れとか愛とか人と関わっていくことなんてできます?笑

 Aできます。絶対にできます。孤独を守り続けるっていうのは孤立することとは違う。〝わかってほしい〟〝わかりやすく安心したい〟〝自己投影した誰かに頑張ってもらいたい〟そんな気持ちにのまれないこと。要は特定の何かへの依存とかそういう類のやつに陥らないことです。

他人を完全に理解することは限りなく不可能に近い。だからわかってもらうために、わかりやすい自分に自分を変えてしまうか、わかりにくい自分を捨ててしまう。

変えてしまったそれが、捨ててしまったそれが、何にも変え難いあなたなのに。

推しも恋愛もカリスマも疑問に思ってはいるけど、好きや憧れや愛や安心の気持ちは否定してない。

気持ちと行動は必ずしもセットじゃない。こうだから好きとか愛しているならこうすべきなんて本当はないはず。

自分は自分のままで気持ちだけを拾いとって人と関わっていけばいい。できないわけがない。

私はこの仮説を信じてる。

あれー?依存しないんじゃないの?

信じることと依存することは違う。信じてるからこうしろって誰かに言い始めたら違う。でもこれも気持ちと行動は違うという話で、信じること自体はそれほど悪いことではないと思う。

簡単じゃないよ。ぜんぜん。誰も肯定してくれないし。誰も代わりにやってくれないし。不安だし大変すぎる。結局、自分なんて無い方が楽だから。何にも考えず人に委ねてわかってもらう方が簡単だ。自分を捨てないで孤独を守るなんて何のプライドだよって言ったらそれまでだよ。でもたとえ難しくて辛くても捨てない。だって今見られている景色を捨てたく無いから。

それに気づかせてくれたのはひとえに時速36kmという音楽の存在が大きい。

〝教えてくれた〟のではなく〝気づかせてくれた〟というのが重要。

約2年前、「輝きの中に立っている」というアルバムが出たときライブのMCやアルバムの解説書やもちろん音楽もたくさんきいた。

その中で「俺たちは輝きの中にたっているがその輝きは自発的なものではなくて月みたいに誰かの光で輝いていたりみる人によって何がどう輝くのかは変わったりする(←意訳あてにすんな)」という趣旨の考えになんども触れた。

同時に自分には何が輝いて見えるのか考えた。

直感的に「あなたたち(時速36km)だよ!」と思った。

でも時速を聞いていたら直感を直感で終わらせることなんてできない。徹底的に考えてしまう。それも考察みたいに制作者の答えを見つける作業じゃない。紛れもない自分自身のことを考える。だから時速からたくさん受け取った暁には自分のことがよくわかるようになる。

内容に共感できることが前提の言葉はたくさんある。でも時速は違う。わかった気になって共感すること(もできるだろうけど)の外側にたっくさんの〝余地〟がある。

おかげでわたしにはどうして時速が光ってみえるのかわかってきた。また時速以外にも光はたくさんみえていてその光たちの存在や理由にも気がつけた。

理由は簡単、みんな自分を捨てていない。

到底理解されない自分と自分が信じたことをどんなに辛くても捨てていない。

信じている内容は人によって変わるけれど、その信じていることこそがその人をその人たらしめている、しかも信じ続けるのは難しそう、それでも頑張ってるという点では同じ。

自分を捨てない人は〝これさえあれば大丈夫!〟がない人たちとも言えそう。きっと限られた親密な関係だけじゃやっていけないんだと思う。

だから、音楽を聴くし本を読むし遠い誰かに想いを馳せる。ぜんぶ何ひとつ無駄なことなんてない。

自分を捨てないがゆえに誰にも理解されないということは救いだ。あの人のこともこの人のこともぜんぜんわからない。だけど私のようにわからない自分を日々守っている。そう思えた方が、変わった変わらない、本当は同じじゃなかったみたいな悩みにぶち当たるよりいい。

私からみえる時速36kmの光とその光で照らされてみえてきたものたち。

この光が見え続けるかどうかは私自身にかかっている。私がどうあるかで何がどう輝いてみえるかが決まるから。

私が今大切にしていることやものを捨てずに大切にし続けること(どんなに無駄で苦しくてかっこ悪いように思えても)。

孤独でわかってもらえないことから逃げずに、わかりやすく成功できない自分でも信じて、頑張り続けること。

ぜんぶ私しだいだ。

導く声がしないなら

腹から声を出して叫ばなきゃ

助かる時はいつだって

救いを願う君の右手がその先へ

助かる時はいつだって / 時速36km

誰かに託しちゃダメ。誰かに託してもどうにもならないっていい加減わかってきたでしょ?

でもそんなことに気づいても目の前には真っ暗で音のしない孤独で不安な世界が広がっているだけだ。

そこで諦めず自分で進み始めたとき、光が見えてくるんだと思う。もしかしたら自分も誰かからみて光れたりしてね。

それでも心細くて疲れてしまったら、時速を聴けばいい。

私は音楽的なこともパーソナルなこともわからない。一言に価値を持たせられるような偉い人間でもない。

それでもこうして特定の対象へ言葉を紡ぐ意味があるとすれば、それは自分自身が頑張り続けるためであり同じように頑張っている人を見つけたいからに他ならない。

嘘でもいいし誤魔化していい

少しでも心が燃えるなら

でもあなたが信じた地獄には背かないで

ブルー / 時速36km

捨てた方がいいんじゃない?考えすぎだよ大袈裟だよそんなことないよ、呪いの甘い言葉に逃げたくない。

でも毎日何もなさすぎてカッコつかなくて今まで自分がしてきたことが何なのかわからなくなる。全部わかってるし、わきまえてるよ!って放り出してしまいたくなる。

それでも

わたしの信じた地獄には背かない

その上で喜びも怒りも哀しみも楽しさも好きも憧れも愛も安心もぜんぶ全部見逃さないことはできるはずだぜ。ていうか私がやる。

だってすでにやってる人がいるから。そう思える光を、私は時速36kmから見ています。

みんなは?

 

P.S.まだまだまだまだ時速について語りたいことは山のようにあります。これはただの抜粋であることをご理解ください!

‎狂おしいほど透明な日々に - 時速36kmのアルバム - Apple Music

ディスイズ常に深刻

まちくた廃帝 on X: "そんなことないって、意味があるし価値があるし凄いことであなただけのことだって言いたいのにそんな言葉にこそ1ミリの価値もない。他人の言葉じゃ飯は食えないし何もわかってないのは事実で何の力にもなれないけど、せめて私は価値あるものを見逃さず受け取れることは全力で受け取れる人でいたい。" / X

余計なことを言わないようにするとぶつ切りでキレキレの大事なことしか言わなくなって、怖い印象になってしまいますね〜。

知らない人に対して自分が無力すぎることを考えている。

感情には何の影響力もない。好きだと思ったところでその感情が好きだと思った対象に作用する力はほぼない。相手の感情に変化をもたらせたら奇跡。大抵は何の影響もなく、気づかれもせず、なんならちょっと無下にされたりして時がすぎていく。

好きの感情は自分自身にはとてつもない効力を発揮するけれど他人には無力すぎる。

他人には無力でも自分には必要だから好きだと思ったものにたいして失いたくないと思う。好きだ素敵だ美しいと思うものは、好かれる素敵で美しいものとして世の中に存在していてほしいと思う。

エゴでしかないが、好きなものたちが届かない意味がない価値がないと判断されたりそのせいで失われてしまうのはあまりにも悲しい。

判断されてるっていったって外から見える判断なんて氷山の一角でしかない。すべてが迷いの連続なのも重々分かる(それがどんなものでどれだけのことかはわからなくても)。簡単に判断してるわけじゃないよね。

でも私たちはそうやって迷いの末に提示されたものを受け取って素晴らしい美しいと肯定的に捉えてきたはずなのに。そんなことは何の役にも立たなかったんだって突きつけられると狼狽えてしまう。しょうがないんだよ、ってわかってる。私たちの気持ちを汲み取れ!って言いたいわけじゃない。誰にもどうすることもできないことだって知ってる。言葉で腹は膨れないし、知らない人は癒せないから。

そんな現実に直面すると、誰かに直接働きかければ何かを変えられるはずだなんてとても思えない。誰にとっても私はその他大勢、背景みたいなものだ。近づけたように思えた人がいてもせいぜい存在感のデカい背景でしかない。

悲しい。けど反面、どんなに遠くても背景の一部ではありうるということでもある。

それならば、よりよい背景でいられるように私自身をどうにかするしかない。迷いの連続でもきちんと選択して前に進むこと。好きなものからありとあらゆることを受け取って自分のものにしてよりよい選択ができる自分でいること。前に進み続ける体力のある自分になること。大変で疲れるけど、大変で疲れてでも頑張る過程こそが好きだと思う美しい人やものをつくる。自分だけが頑張ってたら心が折れてしまうけど大勢の人が当たり前に頑張り続けていれば心強い。頑張ってる人が頑張れる美しい世界を作る手伝い。それなら私にもできる。

みんな美しいから安心してくれって美しいメロディと美しい声で歌えたらいいんだけど、そうはいかないから、私は私なりに頑張るしかない。

時速の新譜楽しみだなー

 9/20が楽しみ!厳密には絶対フラゲするので9/19。さらに厳密に言うと9/19以降の日々。

 時速36km 2nd mini album「狂おしいほど透明な日々に」が発売してたくさんの言葉(厳密には言葉だけじゃないんだけど)が世の中に巡っていくこと、なにより私に届くことが楽しみで仕方がない。

 世の中(私も含めて)答え合わせが好きな人が多い。インスタで話題になっている店に行って話題になってるものが見れて嬉しい。とか、人に対して自分の思った通りの人間じゃなかったからイラつくとか。正解だったら嬉しくて不正解だったら気に入らない。表現だって自分の気持ちを正解にしてくれるものは支持されやすい。

 正解を与えるための表現は、自分の正解になりうるかひと目でわかる。自分の求める正解じゃないな〜と思ったら魅力を感じなくなる。後から魅力を感じたとしてもそれは自分の求める正解が変わっただけ。そんなんだから変わったら響かなくなるとか言うんでしょ。変わらないでとか言うんでしょ。恋愛してる人にしか響かないラブソングに用はない。

 でも時速36kmという音楽は簡単に正解を与えてくれて快感を得られるような甘いもんじゃない。だからこそ、私はずっと大好きなんだよねって最近は強く強く思う。

 時速を聴いていると、生活の中で何を思ったか何に気づいたか何を考えたか何を大切にしているかのような、細かく文章にしたら何冊もの本になってしまうことの断片が詩的に音楽的に表現されてると思う(思える)。そして私はその断片から〝諦めず真摯に生活を送ること〟がどういうことなのかを知っていく。それは時速から教えてもらったようでもあるけど、時速が明確に教えてやると公言してるわけでもない以上あくまでも私の考えだ。でもそれこそを時速は歌っている気もする。〝どこまでも自分の考えで自分で営んでいくしかない生活から逃げずに考え続けること自体〟を表現している。

 だから、正しさとか共感とかは関係ない。もちろん共感することもある、自分と同じだと思って背中を押されることもある。でもそれ以上に考えさせてくれる音楽だと思う。

 時速が表現する宝石みたいな生活の断片たちは、私が物事を考えるきっかけになってアシストになって私の生活の断片になる。それって〝君の生活に交じる〟ことそのものじゃんね!こうしてまたひとつ時速が表現する断片が私の断片になっていく。

 抽象的で伝えるのが難しい!けど時速が私にもたらす影響が抽象的なこと自体が時速の凄さを表していると思う。

 簡単にわかった気にさせない。むしろ自分のことなのにわからなくて目を背けたくなる色々を考えさせるような音楽。そして考えた先には、理解できた称号でも同じ答えを持っていた喜びでもなく同じように頑張っている証として(自分だけの見え方で)音楽が輝き出す。

 そういう音楽だから、毎回新曲が楽しみに思える。時速が変わっていくからこそ、次はどんなことを表現してくれるんだろう、それを聴いた私は何を考えるんだろうって楽しみになる。

 そんな音楽をリアルタイムで聴けている私はどんなに幸運か!

 毎日毎日、ことあるごとに頭の中で時速が流れ出す生活には理由があるなと思い、日々言語化を試みています。

 本当に新譜が楽しみなんだ!

ふとかんがえたこと

ライブハウスで企画するには簡単に言うと人望がなければならないという強烈なネックがある。だって人を集めなきゃいけないし盛り上がらなきゃなんないから。よって私には一生できない。

主催者が目立ったら主催者の内輪ノリで、バンドが目立ったらバンドごとの内輪ノリにしかならない。それなら私がわざわざ企画した意味も、バンドたちがその日一堂に会してる意味もない。内輪ノリにすらならないのはただ企画が盛り上がらなかったという失敗になってしまう。

これらの心配を打破してる主催者もいるけど、それはもともとミュージシャンと仲がよくて企画を組みやすい人とか、強靭な能力で主催者とバンドの内輪ノリを企画の内輪ノリに拡大できる人だ。

そもそもライブハウスという場所自体、(物理的に)閉鎖された中でそこに来た人だけが数時間盛り上がるための場所なんだから当たり前とも言える。

ライブハウスだけじゃなくて小さいコミュニティというもの自体、既存のしきたりやら顔がひろいことを重んじるものだ。

それが嫌なら全部1からやるしかない。

だったら1からやってやるよ!が私にとってはダチュラフェスティバル(※一番下に説明あり)だったと思う。

実際どの程度の完成度だったかはわからない。でも、何か特定の既存集団の内輪ノリに陥らないこと、イベント内で閉じないこと、かといってそれぞれが独立し主催者がただの場所貸しと化さないこと、色々な世界が同時に存在してそれらが流動的であること!そのために何ができるのかを必死に考えて実行したことは事実。

ダチュラでも(弾き語り限定だけど)ライブステージはあったし、ライブハウスで企画を打つことと似た部分が多かったと思う。だからこそ何が違うのかとかダチュラだからこそできることはなんだってたくさん考えました。

そしてそれはちゃんと形となって意味のあることだったと言える!

音楽が好きだからライブハウスが楽しいけど、自分が楽しいと思える状態のライブハウスにしか行けない。だからふらっとライブハウスに遊びに行くみたいなのはムリ。あらかじめ音源を聴いて好きなバンドの生演奏を聴くためにしかライブハウスへ足を運べない。それでも普通に嫌な思いになることもある。

全部を好きになれたらなって思うけど、私の根本的な性格からして仕方がない。

内輪ノリで、求心的で、閉じていくことが徹底的に嫌だから、既存のコミュニティに属せない。巷の恋愛も無理。いろんなところに自分の都合よく出たり入ったりして、最終的には自分でやる。考える。しかできない。そんな私がそんな簡単に絶対的な居心地の良い場所を得られるわけないからねー。

こういう美意識が高くてやりがいのある人生は大変だ。エネルギーがいる。でも、そんな美しい人生の象徴にダチュラフェスティバルがあるし、この文章があるし、いろんな人との関係とか好きな音楽とかいろんなものがある。そう思えば、何もかもがぜーんぶ偉大!偉大なわたし!だから挫けないでがんばる!

 

P.S.でもライブ企画はしたいな〜こんなに言ったらめっちゃハードル上がっちゃうけど笑。いつかします。10代の内にはきっと。

 

ダチュラフェスティバルというイベントは私と2人の友人の3人で主催したイベント。

ダチュラフェスティバル」で検索したら色々出てきます。

でもたっっくさんの人たちの計り知れないほどの手助けによって開催できたイベントで私たちの手の中に収めて話せるようなことでもない。

私個人レベルでもダチュラフェスティバルによる意義やら影響やらはそう簡単には語りきれない。

でもこんなふうに色んなことを考える度に、やってよかった意義があったと思える、思い出なんて過去のことみたいにはまだ扱えない、私にとってドデカすぎる存在。

わたしにとってライブとは

※これは、主に2021年に書いてた内容の再掲です。

 

 

わたしにとって、音楽が好きということにライブという要素はあまり深く関わっていない。

というのはライブで得られる諸々のことは、好きになった音楽を作るor演奏してる人達がたまたま今活動しててライブに行ける環境にあるってなったときだけに出現するものだと認識しているから。オプションのようなもの。

ライブにいけるバンドに比べてライブに行けないバンドは好き度が変わるなんてことはありえない。音楽は部屋とか電車の中で俯いてるときとかに一人で聴くもの。そう考える私が〝みんなで一体感うぇーい〟なイメージがあるライブに行こうと思うのはかなりレアケースだ。一見わたしには需要がないことでは?とさえ思える。

ではわたしはなぜライブに行くのか。

わたしは時速36kmというバンドのライブが大好き。コロナ禍だったり、自分の考え方が変化したりで、一時期は月に何度も行っていたライブにほぼ行かなくなったけど、時速のライブだけは何度抽選に落ちても諦めず這いつくばってでも行っている。

なぜか。時速が死ぬほど好き!それもある!が、わたしが時速のライブにだけしつこく通うのは時速のライブに良い意味で〝一体感〟がないから。(一体感というのは運動会のときとかに発揮されるタイプのやつ)

まって!怒らないで続きを聞いてください。

コロナ前から時速のライブはモッシュとかダイブが起こるタイプではなかった。でもコロナ禍になってモッシュやダイブが起こらないのが当たり前になった今、それが盛り上がってないからじゃないことが証明されたと思っている。

コロナ禍の時速のライブは本当にマナーが良い。

イェーイとかフーみたいな歓声すらみんな我慢するしセトリ貰いにいくのも遠慮する。

でもその代わりに拍手とか手を挙げることで、全力で喜びを表現する。時速のライブはよく手が上がる。でもモッシュやダイブは起こらない。

わたしはこの状況が〝時速と一人一人のファンが一人ずつ繋がってる〟ってことに思える。〝ファンのみんなで一つになった〟っていう輪っかの繋がりじゃない。時速から放射状に一人一人に伸びる繋がり。わたしたちが部屋とか電車で下向いてるときとかに一人で時速聴いてるときと同じ繋がり。

このいわば〝時速とファンの一対一の関係〟がたくさん集まってる状態がとても好き。

例えば近いのは学校の授業。

学校の授業だってみんなその場にいて同じ授業を聞いてるけど合唱コンのときみたいな団結をしてるわけじゃない。聞いてる側は話を聞いたり、ノートを取ったり、はたまた寝たり、各自で授業を受けている。これはまさに先生から放射状に生徒にのびる関係だと思う。

わたしは学校の授業も好きで(つまんない授業はつまんないけど)手上げて質問とかめっちゃするタイプ。

先生と繋がる無数の生徒の中でわたしめっちゃ楽しいです!これ興味あります!って主張するために手を上げる。

バンドと繋がる無数のファンたちが手を上げるのも同じ心理ではないでしょうか。

たぶん学校で行われることの中でも「運動会とか部活とか好きだよー」って人と「座学最高ー☆」って人がいるようにライブが好きな人の中にも「モッシュダイブor友だちコミュニティこそ醍醐味!」って人と「部屋で一人音楽と繋がるあの私だけの空間が好きだ!ライブでもそれを味わうぞ!」って人がいるんだと思う

別にどっちが良いとかは全くないんだけど、

わたしは完全に後者で、(コロナ禍になって)ロッキンで騒げないぴえん🥲とはならないし、ライブがなくても音楽が好きであることに変わりない。でもなくなってしまったらちょっと寂しい。

私のとってのライブはそういう奇跡みたいなバランスで自分にたくさんのことを与えてくれる存在なんだと思う。

(思うことがありすぎてなんでもいいから書かないとたぶんまとめらんないので強引な幕引き)